日本書紀によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・
草壁皇子が共同で政務を執るようになった。持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。
持統天皇は15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれた。中大兄皇子にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(
弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。飛鳥浄御原令の制定、藤原京の造営、日本書紀と古事記の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。