当天皇の在位について、実態は明らかでない。
父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の
雄略天皇)に殺されると、兄の億計王(後の
仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石郡や美嚢郡の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子と名乗り、縮見屯倉首に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧天皇が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は
飯豊青皇女が執政した。兄の説得に折れる形で、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。